芝原人形

芝原人形
 種類:土人形
 制作地:千葉県
 現制作者:千葉惣次

 芝原人形は千葉県長生郡長南町芝原で明治5年頃、田中錦(金)造により創始され、農閑期に制作された。錦造は号を錦山といい、儒学者でもあった。その錦造が瓦屋から型抜き技法を学び、原型制作をするかたわら、型抜きをおこない芝原人形が生まれた。田中錦造(初代)−春吾(二代目 錦造の長男)−謙治(三代目 錦造の次男)と引き継がれて制作された。謙治は10歳の頃から父親を手伝い、大正5年(1916)に分家独立し、生涯一貫して土人形作りをおこなった。昭和30(1955)年12月に千葉県指定無形文化財に指定され、昭和47年9月制作用具のすべてが県の民俗資料文化財に指定された。土人形作り一筋の先代だったが、晩年、後継者問題がおこったため自分の代で芝原人形の廃絶を宣言した。昭和46年91歳で謙次の死去とともに田中家による芝原人形は廃絶した。その後、昭和57年故石井車偶庵の肝いりで田中家ご遺族の承諾を得て、千葉惣次が四代目窯元となり復活制作され、現在に至っている。
 芝原人形は現在130種の型が残されており、錦造自らが起こした型が約70種、今戸人形からの型抜きが45種、伏見や相良などからの型抜きもいくつかあるという。明治の風俗ものが多く、目のまわりに牡丹色のくま取りが特徴。型抜きの人形はオリジナルに近い彩色が多い。

   高さ100mm×横80mm×奥行48mm
三代田中謙治作    背中のラベル

 芝原人形は目のまわりにほんのりと紅がさしてあるのが特徴だが、招き猫や座り猫にはそれはない。その代わりまん丸の目で愛嬌のある顔をしていて、しっかりと描きこんである。石井・相場(1976)によれば招き猫は2種となっているが、この横向きの招き猫しか見たことはない。鈴木(1972)による芝原の招き猫の図版(スケッチ)には横向きタイプと座り猫が描かれているので、もう1種は座り猫のことかもしれない。千葉県立上総博物館(1991)でも猫に関しては横向きタイプと座り猫の2種類の図版(写真)が掲載されているのみである。
 振るとコロコロと乾いた音がする。土鈴になっているわけではないが、中に土でできた玉が入っていて音が出るようにつくられている。雲英が混ぜてあるため、光線の具合によってきらきらと輝いて見える。背中などの目立つところに芝原人形の銘が入った和紙のラベルが貼り付けてある。
 武井武雄の日本郷土玩具に掲載されていないが、これは戦前販路は茂原周辺に限られ戦前はあまり紹介されなかったことが原因のようで、全国的に知れ渡ったのは戦後になってからのようである。
 なお鈴木(1972)の芝原人形の招き猫の項には飯岡土人形にも招き猫があると記述されている。「白く目やひげを書いただけの粗末なもの」とある。芝原のところに書いてあるところを見ると同じ型なのだろうか。石井・相場(1976)は飯岡土人形の型の製法から錦造に型抜きの方法を教えてもらったのではないかと推測している。

 
 
                     左は千葉惣次作  右は田中謙治作

 現在の4代目千葉さんのところでは小型の招き猫も制作している。先代も小型の招き猫をつくっていたが、芝原の招き猫というと上の横座りタイプが有名だが新たに加わった作品だろうか。千葉さんのものはラベルを貼るのではなくスタンプで銘が押してある。もちろん小型のものにも土の玉が入っており、振ると音がする。今戸の型の子抱き猫も制作している。

 
 
     四代目千葉惣次作    左:高さ5.8cm  右:高さ6.8cm

 三代目の田中謙治が亡くなって35年がたちます。かつては謙次作の芝原人形は骨董市などでもけっこう見かけましたが、最近はだんだん出品も少なくなってきました。時代の流れとはいえ寂しい限りです。
 芝原人形といえば、かつて石井車偶庵氏の車偶庵民俗文化資料館で奥様にいろいろと話を伺ったことが思い出されます(この時車偶庵氏は病気療養中だったため、直接お話を伺うことはできませんでした)。当時に比べれば少しは知識も仕入れたので資料館の見方も異なってくると思います。現在の自分の目でまた資料館をぜひ見学させて頂きたいと思っています。



参考文献
「日本の郷土人形」房総 芝原人形の系譜 芝原人形展示図録(千葉県立上総博物館 1991)
房総の郷土玩具(石井車偶庵・相場野歩、1976 土筆社)
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)
全国郷土玩具ガイド2(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
日本の土人形(俵有作、1978 文化出版局)